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Дмитрий Иванович МенделеевDmitii Ivanovich Mendeleev
メンデレーエフ(1880年) メンデレーエフの書斎 メンデレーエフの墓
メンデレーエフ略年譜
[日付は断らない限り露暦。西暦に換算するには、19世紀には12日、20世紀には13日を加える]
1834年1月27日(西暦2月8日)西シベリアのトボリスクで生まれる。
1849年6月(15歳)ギムナジウムを卒業。
1850年9月(16歳)ペテルブルグの高等師範学校に入学
1855年6月(21歳)高等師範学校を卒業
1855年8月(21歳)クリミア半島のシムフェローポリのギムナジウムに赴任
1855年11月(21歳)オデッサのリシュリュー・リセに転任
1856年9月(22歳)修士論文審査
1857年1月(22歳)サンクト・ペテルブルグ大学化学私講師になる
1859年4月(25歳)西欧留学に出発
1860年9月3日-5日(西暦)(26歳)カールスルーエの国際化学者会議出席
1861年2月(27歳)西欧留学から帰国
1862年4月(28歳)フェオーズヴァ・ニキーチチナ・リシチョーヴァと結婚
1864年1月(29歳)ペテルブルグ技術高等専門学校化学教授
1865年1月(31歳)サンクト・ペテルブルグ大学理学部で博士論文の審査
1865年12月(31歳)サンクト・ペテルブルグ大学技術化学講座の正教授
1867年10月(33歳)サンクト・ペテルブルグ大学一般化学講座の正教授
1868 -71年(34-37歳)『化学の原理』初版発行
1868年10月(34歳)ロシア化学会設立承認
1869年2月17日(35歳)最初の周期表の組み立て
1869年3月6日(35歳)ロシア化学会の例会で周期律に関する最初の論文の口頭発表(メンシュートキンが代読)
1870年12月(36歳)ロシア化学会の例会で「元素の自然体系と未発見元素の性質の指示へのその応用」を発表
1871年11月6日(西暦)(37歳)ドイツ語論文「化学元素の周期律」を掲載する『化学薬学年報』が発行
1871年12月(37歳)気体研究の開始
1875年5月-1876年1月(41歳)ロシア物理学会の心霊術調査委員会に参加
1876年6月-7月(42歳)アメリカで石油業の調査
1880年11月11日(46歳)ペテルブルグ科学アカデミー物理科学部門で「技術と応用化学」の正会員ポストの投票(メンデレーエフ落選)
1882年4月(48歳)アンナ・イヴァノーヴァ・ポポーヴァと再婚(2月に前妻と正式に離婚)
1882年10月(西暦)(48歳)ロンドン王立協会は、メンデレーエフとL.マイヤーの「元素の分類の研究」に対してデーヴィー・メダルを授与
1890年3月(56歳)サンクト・ペテルブルグ大学教授職を辞職
1890年6月-7月(56歳)無煙火薬調査でヨーロッパに出張
1892年11月(58歳)度量衡原器の「学術保管官」に任命
1893年7月(59歳)度量衡原器管理所が中央度量衡局に改組され局長に就任
1903年(69歳)論文「世界エーテルの化学的理解の試み」を発表
1903-1905年(69-71歳)『秘められた思索』の発表
1906年7月(72歳)『ロシアを知るために』発行
1906年(72歳)『化学の原理』第8版発行
1907年1月20日(西暦2月2日)(72歳)午前6時20分、逝去。