東京工業大学21世紀COEプログラム「インスティテューショナル技術経営学」
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コラム:「記者の眼」

「インスティテューショナル技術経営学」拠点形成活動の状況や成果について、日経BPの記者が拠点メンバーに取材を実施してコラム:「記者の眼」を作成することが決定しました。記事は2ヶ月に1本のペースで作成されます。記事本文をこのページに掲載していきます。


第5回:「失敗学」にも役立つインスティテューショナル技術経営学

これまで本コラムで実例に学ぶ重要性を繰り返し訴えてきた。技術をベースにビジネスを展開するメーカーなどにおける経営の実践例にこそMOT(Management of Technology)の教材が数多く存在しているという考えからである。

実例は大きく成功例と失敗例の二つに分けられる。どちらがより多くの教訓を含んでいるだろうか。「失敗は成功の母」ということわざにもあるように、失敗例の方が参考になる点が多いように私は思う。一つの成功の前には数多くの失敗があり、その一つひとつに成功を導くためのヒントを見いだせるはずだからである。成功例から学ぶ際にも、成功を収めるまでの過程で起きた失敗にまで目を向けなければ、有益な教訓をくみ取ることはできないのではないか。

間接的な要因を掘り下げる

筆者は13年余りに及ぶ記者生活を通して数多くの失敗例を取材してきた。その典型例は事故である。かつて土木技術者向けの専門情報誌「日経コンストラクション」に在籍していたとき、土木工事の現場で起きた死傷事故の記事をよく手掛けた。人の命にかかわるだけに、通常の工事現場のリポートよりも切実な記事として読者にも受け止められたのだろう。事故の報道に対する読者の評価は総じて高かった。

ところで事故の取材で特に心がけていたことがある。事故が起きたメカニズムだけでなく、その背景まで掘り下げることだ。

例えば、橋桁の架設作業に習熟していない作業員がジャッキの操作を誤り、ジャッキで持ち上げていた桁が転落する事故があったとしよう。この場合、事故の防止策として、作業に習熟している作業員だけにジャッキを操作させるようにすることがすぐに思い浮かぶはずだ。しかし、これでは本当の解決策にはならない。なぜ作業に習熟していない作業員がジャッキを操作することになったのか。ベテラン作業員のリストラなどといった間接的な要因にまでメスを入れなければ、有効な防止策を講じることはできないのである。

「トップの無理解が原因」とは限らない

Hobo

経営の失敗についても同じことが言えるだろう。トップの判断ミスといった直接的な原因にとどまらず、トップが判断を誤るに至った遠因にまでさかのぼって失敗の要因を分析しなければ、同じ失敗を繰り返すことになりかねない。

こうした失敗の分析でも、イノベーションと国や地域の文化や慣習との関係を解明しようとする「インスティテューショナル技術経営学」の枠組みが役立ちそうだ。この21世紀COEプログラムの特任教授を務める保々雅世氏にお話をうかがい、その感を深くした。

保々氏は米マイクロソフトの日本法人の業務執行役員で、ビジネスソリューション本部の本部長を務めている。

同氏は東京工業大学大学院で博士号を取得した。「1980年代までの工業化社会で製造技術の向上によって生産性を高め、世界のトップに上り詰めた日本のメーカーが、90年代に訪れた情報化社会の波に乗り遅れて、IT(情報技術)を活用できずに生産性を低下させたのはなぜか。その理由を解明したかった」。保々氏は博士課程で学んだ動機をこう語る。  

メーカーをはじめとする日本企業でITの活用が進まない理由として経営トップの理解不足がよく挙げられる。しかし、保々氏は博士課程における研究結果を踏まえて、次のように指摘する。

「経営トップは、『コストダウンに取り組む』『サプライ・チェーンを効率化したい』といった明確な目的をもって、ERPなどのシステムの導入を決定している。問題は、そうしたトップの意思がシステムを実際に使う現場にまで伝わらないこと。だから、現場でシステムが使われない」。

ERPは会社全体の効率を向上させはしても、現場の効率まで向上させるとは限らない。例えば、メーカーがERPを導入して工場の生産計画を月単位から週単位に変えようとしたとする。それに伴って、工場の生産現場では材料や部品を週ごとに少量で購入しなければならず、大量に購入していた以前に比べて生産コストは上昇する。

しかし週単位の生産になれば、大量の材料や部品の在庫を抱え込まずに済む。現場の生産コストが増えても、物流のコストが大きく減るので製品の価格は下げられる。こうした恩恵が伝わらなければ、目の前の生産コストの増加だけを見て、生産現場がシステムの導入に消極的になるのは無理もない。

専門に閉じこもらない人材を育成

こうした分析結果を導くことができたのは、保々氏が「ITの活用が進まないのはトップの理解不足が原因」という定説にとらわれず、日本企業の組織文化にまで踏み込んで実態に目を凝らし、真因を探ろうとしたからである。

では、なぜトップの意思が現場に伝わらないのか。「大企業では、システムの導入を情報システム部といった専門部署に任せることが多い。ところが、これらの部署の専門家はシステム化の対象となるほかの部署の業務を経験する機会が限られているため、それらの業務に精通しておらず、トップが打ち出した導入の目的をほかの部署の人たちにうまく説明できない」と保々氏は話す。

情報システム部門の技術者に限らず、研究開発や製品開発といった専門分野のことにしか目を向けていない人は多い。専門分野だけでなく、会社の業務全般にも精通した人材の育成に貢献することが、インスティテューショナル技術経営学の特任教授として保々氏が掲げる目標である。

(中野目 純一=日経ビズテック記者)